駄文集

思ったことをただ書きます

灰色の壁

 帰宅途中、灰色の壁を見上げて自分が寂しいことを自覚した。いや、これが初めてではなかった。朝布団から上半身を起こすとき、トーストを食べようとしたとき、駅まで向かうとき、駅から大学まで歩くとき、昼食を買ってベンチに腰掛けるとき、帰りの電車を駅のホームで待ってるとき、コンビニに寄って帰るとき……そのときどきのほんの一瞬で確実にそれを感じているのだ。しかし路傍で立ち止まったが最後、それらは集まって輪郭の明確な不安に転化した。

 立ち尽くしてしまった。それは極短い間だったが、ひどく無限に近かった。自分は何をやっているんだろうか。そう思った。

 家族がいないわけではない、友達がいないわけではない、人間関係が悪いわけではない、趣味がないわけではない……。なのにどうしてこんなに、空気が抜けて地面に力なく留まっている風船のような状態になったのだろう……。私は生活に不満があるわけではないのに……。どうしたらいいか、わからなかった。

 そのようにして立ち尽くしているときに、自分の右側に黒色の猫が寄ってきた。左眼はやにで覆われていた。猫は鳴く。弱々しい声だ。餌をねだったのか、仲間を呼んだのか、気まぐれか、それとも私に同情したのか。真意を知ろうと、もう一度声を聞くことを期待したが、そのときにはもういなくなっていた。

 意識は再び自己の不満足な生活へと戻る。決して悪くない。悪くない生活を送っているはずなのだ……。

 もしかしたら、悪くないこと自体が原因なのではないか。悪くないことは印象が残らないということだ。悪いことは悪くても、記憶の片隅に留まる。今、私が持つ不安の正体がわかった。空っぽなのだ。空虚なのだ。虚しいのだ……。

 ただ生きている……。ただ息をしている……。目的なく、意思なく、飯を食い、糞をして、一瞬の快楽を得て、寝ている……。

 絶望した。重みのない未来が双肩にのしかかり身体を萎縮させる。私は、何故生まれたのだろう、どうして生きているのだろう。私の存在は、私の意思は、何をするのだろう……。鳥のいない鳥かご、誰にも理解できない言語で書かれた本、光らない電灯……。もう、何をすることもできない。このまま、そこにあるだけの時間を浪費するだけだ……。感覚的に私はそう悟った。

 思えば、これまで何も頑張らなかった。少なくとも、考え方を変えるほど記憶に大きく残る程度には。大きな挫折や失敗もしなかった。それらができるほどの労力を伴う行為は避けてきた……。その結果が今だ。無気力で、目の前の楽を選び、どこかせくせくとした他人を冷笑していた。つまり、過去の己が全てなのだ。過去の己の怠慢で今の自分の怠惰が形成されているのだ……。

 大学へ行っても学問に興味を示さず、講師の言葉は右から左に流し、何も学ばない……。友達も作らず知っているだけの顔と名前ばかり増え続ける……。SNSで会ったことのないよく分からない人と交わす中身のない薄いコミュニケーション……。趣味もなく資格もなく家にいればただ動画サイトを見て持てる時間を消費する……。起きたときに、朝日はなくやる気は起きなく、何もやらない休日……。

 幼い頃は良かった。自分が不幸せなことに気づかなかったからだ。現状に閉塞感はなく、未来を疑わず、ただそのときを生きていた。

 今からの未来に、何かがあるのだろうか。振り返っても何もない道の先に、振り返れるようなことがあるのだろうか。

 ふと違和感を感じ、灰色の壁の右下端の方を見た。自分の首周りほどの大きさの穴がある。そこには黒猫がいた。その瞳孔に映る自分がこちらを見ていた。