駄文集

思ったことをただ書きます

夜行

 私は気がつくと夜の電車に乗っていた。どうして乗車しているのか思い出せない。乗る前に何をしていたのかもわからない。これは夢なのだろうか。わけがわからない。しかし夢と思ったとて、特に変化はなく、時間が過ぎるだけだった。どうしようもないので、とりあえずどうしてここにいるかどうかについては考えないことにした。

 私の周りに他の乗客はいなかった。左右に顔を向けて連結部の窓から両隣の車両の様子も伺ってみたが、そこにも誰かがいる気配はない。どうにもこうにも、この電車には私しか乗車していないようである。なんだか安堵した。往々にして、電車の中には変な人がいるものである。何か挙動がおかしな人、お互いを触り合うカップル、痴漢、痴漢、痴漢。もし私がここら辺の地域でそこそこ名の知れた女子高の制服を着ていなかったら、痴漢はもっと近寄らないでいてくれただろうか。それともそれとは別の要素、例えば少女性とかを持っているから彼らは距離を詰めてくるのだろうか。どちらにせよ、今この瞬間の連続に私は1人だ。それが大事である。そして今気づいたのだがこの電車、広告が全くない。普通の電車ならば、やれ脱毛をしろだの、やれ予備校に通えだの煩わしい文句が垂れ流しにされているが、ここにはそれが一切なかった。歌舞伎町を更地した景色にはきっとこんな感じだろう。現実にも、こんな風に漂白剤をぶちまけられたらどんなにすっきりすることだろう。一日が「きょう、ママンが死んだ」という描写から始まったらどんなに気持ちに余裕ができるだろう。別に母親がうっとうしい訳ではないのだ。もちろん、不満がないわけではないが。ただ、母親がいなくなったら新しい日々が始まることは確かだ。

 毎日通学しているように、進行方向に対して横向きに座っている。いつもはつり革を掴んで立っているサラリーマンたちがいるため、私の向こう側の窓は見えないのだが、今は窓の全体を見ることができる。反射して映る青い座席と白い壁、流れていく寂寞な黒の世界、そして私を見つめ返す私がいた。ぽつぽつと光る街灯や家の明かりがアクセントだった。窓枠の上部には月が浮かんでいる。ちょうど満月で、黒く塗った画用紙に、とりたての卵の卵黄一つ落とした感じだ。小石をいくつか掴んで、散弾銃のように思い切り宙に投げ放った瞬間を切り取ったような星々も点在している。あの宙に浮かぶ卵の中身を握り潰して黒に飛び散らせたら、さぞかし気持ちがいいだろう。そしたらそれを吸い込んで、月の欠片で肺を満たしたい。そうしたら、浮ける気がする。浮いた後はどうしようか、ただ目的もなくふらふらと世界を漂う浮浪者になるのもいいかもしれない。いや、それよりも、地球を飛び出して、ひたすらどこかを目指して進む方がいいのかもしれない。

 気づくと辺りは白んでいた。現実を脱色したように感じる。夜が明けたのだろうか。どのくらいの時間が経っただろう。私は一体、どこに行ってしまうのか。一抹の不安が頭の隅にちらついていた。けれども、何故かこの電車から降りる気はわかない。それはいつかどこかに着いて、降車できるだろうという思いと、このままどこかに連れて行ってくれるという思いがあるためだ。世の中に止まらない電車はないはずである。例え環状線を走る電車であったとしても、いつかは車庫に入るであろう。何より、ここは居心地が良い。思い出せないのに胎内にいた感覚を思い出す。程よい人体の温もりと羊水のフィルターを通されたくぐもった安心できる音、確信的な無償の愛情。ここの空間はなぜかそれを感じる。この電車が止まるまで眠ろう。そう思った。