駄文集

思ったことをただ書きます

ある空間において物体が占める割合について

 部屋を片付けたい。無論、散らかっているからである。机上にはメガネを拭くための布や使われないのに役に立つという顔をしている何本ものコードなどが互いに縄張りを主張し合っている。床の上では掛け布団がだらしなく起き抜けの姿のままで寝ており、いつから積み重ねられたか不明な背表紙が不揃いの本たちが児童のように背を競い合っている。この部屋には秩序がない。散らかした、という言葉の述語に対する主語以外は。散らかしたくて部屋を散らかす人は恐らくいないだろう。つまりは、結果的に散らかるということだ。ということは、少しばかり目を閉じて視点を変えると、私は全くの被害者なのだ。加害者は私である。部屋をきれいにしたいと、毎日風呂につかりながらやんわりと思う。風呂は考えることを除いて、何か思索に耽るには最適の場所だ。ここで言う、思索する、というのはただぼんやりすることである。これはとりたて趣味と言えるような趣味がない人が、趣味欄にただ二文字、読書と枠を埋めるようなことに似ている。これを二文字で表すと、方便である。さて、風呂でぼんやりと己の部屋を片付けると意気込んで、お湯から出る。体を拭く。髪を乾かす。牛乳を飲む。部屋のドアを開ける。そうすると、さっきまで考えていた今後の予定などはとんと消えてしまう。朝から敷いてある布団の上に寝っ転がる他できなくなってしまう。多分、夜も更けると、体が布団を恋しく思ってしまうのだろう。また、布団も体を求めてしまうのだろう。これはまさしく自然な現象なのではあるまいか。朝に太陽が光り夜に月が輝くように。長い距離を飛ばそうと投げたボールが大きな弧の軌道を描いて落下していくように。きっとそうである。体と布団はそのような関係性にあるに違いない。それに部屋が散らかってたって良いではないか。それは生きた証である。それは私という生活の痕跡、人生の轍である。物がたくさんある空間というのも、自分がデザインしたと考えれば愛着が湧いてくるものである。その中で長い時間を過ごしてきたのならば、それはなおさらだ。そういうわけで、部屋が汚くなってくる。しかしながら、それまでの自分の生活を肯定しながら生きることも、それはそれで大切なことのように思える。特にアイデンティティが崩壊、瓦解、拡散していると評される現代社会に生きる人々の心のケアには必要な処置なのではないか。だから、部屋を片付けるのは今じゃなくていい、そう布団の中で思う。