駄文集

思ったことをただ書きます

歯と爪と締めつけ

私が彼と付き合いのあった頃、私はとにかく痕を残そうとしていた。それを感じて、安心を求めていた。彼に残した物理的もしくは心理的な痕跡に、私と彼の間にある他者という埋めることが不可能な隙間をつなぐことを期待していた。それと同時に痕を残す、残されるの関係性の中で私たちを語ることで、私と彼の間の結びつきを強固に、明瞭にしようと目論んでいたのだ。

彼は私との逢瀬のとき、性行為を望んだ。そして私がその要求を拒むことはなかった。というのも、拒む理由が特になかったからだ。私は彼と会うことそれ自体に価値を見出していたし、行為を通して彼が私との時間で満足を覚えれば、私は嬉しさを感じることができた。確かに、会う日に月の障りの影響がある場合は煩わしさがあったが、そういった日は手や口などのみで彼に快感を与えればよかったので、そこまで大きな不満になるわけでもなかった。

私と彼との前戯のとき、私は彼によく噛み付いていた。首や舌や肩、二の腕や肘から手首までの前腕部分、親指の付け根のふっくらとした部分、骨々しい指までを頻繁に自らの口の中に入れた。4本のうちひとつだけ生えた親知らずを含む29本全ての歯で彼の肉や骨を感じたこともあったし、上下の前歯4本で噛むこともあった。噛んで、てらてらと光る残された自身の唾液と月面のクレーターのように彼の肌に刻まれた噛み跡を確認して、私は恍惚に陥った。他の誰でもない私だけが彼に残した唯一無二の痕。彼との時間の証左。かじった直後の皮膚はただ歯型に平生の皮膚の色で凹んでいるだけなのだが、少し時間が経つと内出血により赤い窪みになる。その赤さが、私と彼の時間の象徴だった。彼のヘモグロビンが私のために集まっている、そのことに強い愛着を持っていた。赤血球さえ愛していた。

彼が目を閉じながら耐えていたのは私が顎の筋肉に力を入れているときである。私が彼の表情や身体の強ばりを見逃すことは一切なかった。そういった要素も私にとって痕の要素のひとつであったし、普段の彼との会話などで主導権を持つことのない私は、自分の力の入れ具合の多寡で彼の苦悶の表情を操作できるこのときが至福だった。

私が噛むことについて、彼は犬歯も痛いが、前歯の方が痛いとよく言っていた。それを受け、自身の前歯の先端を指でなぞってみると、ギザギザしていた。後で分かったことなのだが、これは生えかけの永久歯によくある状態らしい。そして成長するにつれて咀嚼によってすり減り、平らになっていくようだ。しかしながら、私の前歯は乳歯から永久歯に入れ替わってから15年以上経っているはずである。つまるところ、私は食事の際に前歯をあまり使用していないのだろう。この事態を私はとても嬉しく思った。彼に痛みを多く残せるし、それ以上に、私の前歯が主目的である食事ではなく、彼に残す痕のために存在しているように感ぜられたからである。我ながらこの感情について若干の戸惑いを覚えたが、とうとう一日のうちに何度も前歯を指や舌でなぞるという癖がついてしまった。この前歯のとんがっている部分の多さが、私の数少ない身体上の誇れる箇所になったのだった。

彼と会う前に、私は必ず爪を切るようになっていた。これに関して、ネイルなどをする習慣を持っていないことは幸いだった。ネイルをすると短く美しくない自身の指と対比されて、劣等感を刺激されるからだ。なぜ爪を切るのか、それは切られたての爪は断面が鋭くなっているからである。

私と彼との安いラブホテルでの情事の際、特に挿入されているとき、私は彼に抱きついていることが多かった。私に体重を預ける彼の脇の下から背中に手を回し、爪を立てることがしたかった。つまり、痕を残したかったのだ。爪は歯より直接的だ。噛み跡はよっぽど強いものでなければ3時間もすれば綺麗さっぱり消えてしまう。これに対し、爪を立てるという行為は文字通り痕が残る。まず、皮膚の白い薄皮が剥ける。そして少量の血が出る。彼に抱きついた後に爪の先や爪と肉の間を見てみると、赤くなっていることが多々あった。私はそれを彼に見つからないように舌ですくいとっていた。猛烈に赤い匂いと味だった。彼の背中を流れたこれを鼻腔と味蕾で知っているものは後にも先にも私だけであろう。そして、彼の背中に残ったみみずを刻印したような痕を見ることも、私の心を充足させた。この痕が他のものと大きく違うことは、彼本人は確認することが極めて困難であるところだ。背中を見ることは鏡を用いれば可能だが、そう簡単なことではない。この、本人が見ることができないという状況は、格別である。仮に他の誰かが見ても、その傷痕の原因について推測をすることは難しいだろう。とどのつまり、この痕の原因は私のみぞ知るのである。優越、愉悦、恍惚を覚えて仕方がない。さらに、背中という位置にあることは、私にあることを想起させることに寄与していた。私にはその痕が、朽ちた翼の跡地に見えたのである。両翼を失ったみっともないサモトラケのニケを幻視したのである。そこに輝かしい勝利などを連想させる余地はなく、ただただ失墜を醸し出すに尽きる。私という人間は彼に釣り合わないように思えていたから、私が付けたシンボルがある彼の背中は特段愛しかった。

彼に挿入されている最中、私は抱きつくのだが、腕の他に脚も彼の胴を包んでいた。力を入れれば彼の身体に密着した跡が汗と共にうっすらと付くからだ。そしてこれよりも私にとって脚を回すことの意義のあることがあった。それは膣の締まりを強くしやすいというものだ。これをしたいを理由は、私とする性行為を彼の中で特別な地位にせしめるためである。彼はよく私に「キツすぎ」だとか「狭い」だとか言ったが、前後に動いた後は結局出すものを出していた。今になって、やっとあれは不満ではなく賞賛に近い言葉のだったと感じる。とにかく、彼は力の入った私の膣の中で射精していたのである。それも会う度に。それゆえ、彼は私以外の人で満足に精を吐き出すことは難しい状況に陥っているはずである。そう思う度に脳内でエンドルフィンが分泌されているのがわかった。彼は私の真っ赤な膣肉を愛しており、私は彼の真っ赤な先端を愛していた。彼に何度子種を膣壁に打ち付けられたかわからない。けれども、その回数は彼が今後背負うものの体積と比例しているだろう。

今や彼の中で私は見過ごすことのできない大きな大きな痕になっていることが私にはわかる。私はその痕の根源について、彼が私のことをできる限り思い出して欲しくないと切に願う。原因がわからない方が、彼の人生の中でこの痕は徐々に肥大化し、悩むことになるからだ。そしてこの悩み自体も彼に巣食う痕になる。私は彼の中に、痕を介して私がいることを永遠に忘れない。痕を通じて私は彼に触れ続ける。そうして、私は生きていく。