駄文集

思ったことをただ書きます

ナイフと骨付きチキン

 とても嫌なことがあった。正確には小さな嫌なことがたくさん降り積もって、心のどこか大事な部分がその重さに耐えられなくなり、巨大な黒い穴が空いてしまった感じだった。その底なしの黒さが全ての前向きなことの一切合切をその内に引きずりこんで、体の中心にずしりと重たい塊を作っていた。もう何もする気が起きない。普段感じてもいない重力の大きさを感じざるを得なくなっていた。このまま時間が経過したらいつか私の身体は押し潰されて、完璧な平面になってしまうのではないか。そう思うほどであった。
 そんなとき、友人から食事に誘われた。動く気力も食べる気力もなかったうえ、雨も降っていたため行きたくなかった。しかし断る気力も湧かず、半ば無理矢理に食事に行くことになってしまった。彼女は歩くのが遅い私に歩調を合わせてくれた。何かを察しているのか、私に一言も話しかけなかった。彼女が右手に持つ傘の縁から水滴が落ちる。2つの傘に雨粒が当たる音だけが聞こえた。その音は世界からの拒絶の音であるかのように聞こえた。
 気づいたら私たちは小さな洋食屋の前に立っていた。何回か来たことがある店だった。私たちは奥の席へ通された。他に客は1人もいなかった。2人用の小さめなテーブルにはお冷が置かれた。グラスに入れられた透明な水だ。喉は乾いていたが飲む気がしなかった。メニューも眺めずに、彼女は店員に骨付きチキンを頼んだ。その店員は私からも注文を取ろうとしたが、私が黙って目を伏せていると、店員は厨房の方へと姿を消した。雨脚が激しくなっている。雨粒がアスファルトに落ちる音が大きくなっていた。こんなに天気が悪くなるなら、彼女に断る姿勢をもっと見せていればよかった、そう思った。気分は最悪である。傘を意にも返さないような鋭さの雨が降っている。グラスに浮かぶ氷が一回り小さくなる頃、骨付きチキンが彼女の前に運ばれた。
 いただきます。そう言って彼女は骨付きチキンをナイフとフォークを使って食べ始めた。私はそれが強烈に奇妙なもののように感じた。骨付きチキンを食べるのにナイフを使うなんて!という気分になったのだ。世の中にこんなにおかしなことがあってもいいのか。私はひどく憤慨した。そんな私の思いとは裏腹に、彼女はテーブルの端に置かれたフォークをとり、さっさと目の前の肉を口に入れようとしていた。右利きであるはずの彼女はフォークを右手に、ナイフを左手に構えていた。私はひどくあきれた。

 フォークで肉を押さえる。ナイフを動かす。肉が削がれる。それをフォークで刺し、口に運ぶ。白い骨の部分が露出する。再び肉がフォークで押さえられる。今度はさっきと別の部分でナイフが動かされる。肉を削ぐ。その肉がフォークで刺され、口に運ばれる。さらなる骨が露出する。彼女はこれを食べ終わるまで繰り返した。終始金属と皿が擦れて嫌な音が店内に響いていたし、骨に肉がこびりついているところが多数あったし、肉の脂がテーブルに垂れていた。その上、皿に盛られている肉の三分の一ほどは完全に手をつけられていなかった。友人は食べ終わりの挨拶をせずに、店員を呼んだ。会計をするためであった。
 店を出るとき、雨はあがっていた。